4月7日にママが鳥取に到着した時は、30分から一時間しかもたないとお医者様から言われていたのにもかかわらず、結局じぃじ(ママ父=以後父で)が息を引き取ったのは4月8日午前8時20分でした。



マスクの酸素を制限いっぱいに多くしていても段々、体に取り入れる事ができなくなってきた父の枕元で、’頑張れっ’’頑張れっ、5月12日にはまたもう1人孫ができるよ、頑張れっ’と一昼夜励ましていたけれども、とても苦しそうで、だんだん頑張れっという言葉が、ひどく酷なことのように思えてきました。そして、朝、結局、呼吸を停止した時に涙ながらに、出てきたのは、’もう頑張らなくて、いいよ。ほんとよくやったね’と言う言葉でした。



私から見ると、酒飲みで、わがままで、ものすごい男尊女卑が激しくて・・・、会えば喧嘩ばかりしていた父。



思春期、「女には大学なんて必要ない」と進学を猛反対された時には、「なぜ親って選べないんだろう」「死んだって涙なんか出るわけない!」と思っていたけれども、やはり、実の親が静かに眠ったままで自宅に帰るのを見るのは、辛いものでした。



9日が友引なので、9日お通夜、10日がお葬式となりました。



付き添いの間、「できれば、私の誕生日と玄武の誕生日は乗り越えて欲しい」と勝手な事を考えていたけれども、結局、私の誕生日、4月8日に亡くなりました。




次の日、友引の日を選んで、少しでも長く家に居たかったのかもしれないね。それとも、ずっと忘れて欲しくなかったからなのかな。(忘れる訳はないけれども・・・)



とにかく、苦しい息を丸一日以上続けたのには、何か意味があるように思えました。


そして、通夜、お葬式。



どちらも、自宅でだったので、息もつけぬ程の忙しさでした。式の段取り、集落のしきたり、久しぶりに会う親戚のことからお寺関係まで、何もかも始めての事ばかり。



ばぁばは、付き添いの疲れから体調もよくなく、近所に住む、大叔父さん、大伯母さん叔父さんに全面的に協力してもらいながらも、叔父さん(ママ弟)と何とか・・・いっぱい、いっぱいながら、無事父を送り出す事ができました。




日頃、ほとんど老夫婦暮らしで手入れも行き届いていない自宅での式は、大変だったけれども、2月末に再入院してから一度も帰れなかった父を自宅に帰してあげれてよかった。



それに、父が生まれ育ったこの村。思った以上に幼馴染や、長年の知り合いの方にご参列頂きました。



涙を流しながら、お線香をあげて下さるかたもたくさんいて・・・。



最後は、父が幼い頃から、何百回も、それこそ、嬉しい時も、悲しい時も、時には酔っ払いながら、通ったであろう村の道を皆に見送られながら、車に乗り込みました。



少し離れたシティホールかどこかで、式をあげたならこうは行かなかったかも。



段取りが分からず、あたふたしている家族を見ながら、きっと’そがーなこともできんだかー’(鳥取弁です)とビール片手に三途の川のほとりで悪態ついてそうな?父の姿が目に浮かぶようでしたが、(*´ー`) きっと、村から出れたことにこっそり満足気な笑みを浮かべてるように思います。


けれど、誰かをもう見送りたくない、とは痛切に感じました。



病気になってからでは、遅いとも。順番から言ってばぁばは仕方がないとしても(できれば、避けたい)パパや玄武には、本当に長生きして欲しい。食を始めとする毎日の生活の中身をもっと見直したい、と思いました。



他にも、いろいろ書きたいことはあるのだけれど、この辺にしとこう。



玄武、玄武が大きくなった時、きっとじぃじの事覚えてないだろうけれども、じぃじは、ものすごい玄武のこと大好きだったで。



あの世代の人なので、愛情表現があまりうまくはなかったけれども、玄武がもっともっと小さい頃、足をばたばたさせる度に、「足が強い!」と言っては、玄武の事褒めてたよ。



入院中も、お見舞いに行く度に、ひどく嬉しそうに、ずっと側にいて欲しそうにしていました。



玄武が生まれた時も、桜が満開だったけれども、今年、じぃじが去った時にも、ものすごく桜が綺麗に咲いていました。




ママにとって、桜はいろんな想いがこもる花になりました。


玄武が大きくなったら、ピンクの花を眺めながら、たくさん話をしようね。